おまけ 〜エンディング〜

立川は、手が思うように動かなくなったショックで、いやそれ以上に自分が何者であるのかすら自信のなくなった自分に戸惑った。
一体自分に何があったのか、最初はおぼろげながらも記憶していたように思えるが、今となってはその記憶すら薄れてきている。
知らないうちに大学を解雇されていた。大学側に聞くと確かに立川自身が退職届を出しにきたのだと言う。
そんな馬鹿な! それは自分じゃない!

気がつけば病院の白い壁を見つめて過ごしていた。
自分は何のために生きているのだろうかかと自問自答する日々が続いた。
そんなある日、夜半過ぎに尿意で目が覚めた立川は廊下を曲がりトイレにゆっくり向かった。
すると、曲がり角の小さな部屋からぼそぼそと喋り声のようなものが聞こえた気がして、立川は足を止めた。その部屋は医師の宿直室である。小さな喋り声は、それだけで秘密の香りがするものだ。興味を掻き立てられ、何より自分に関係のあることかもしれないと感じた立川はいけないこととは理解しつつも、聞き耳を立てずにいられなかった。

「…で……おと…の状態は…どうなんじゃ」
どこかで聞いたことのある声のような気がして、耳を集中させる。知っている医者の声ではない。では一体誰の声なのだ。
「安定しているようです。以前のことを思い出す兆候もありませんし」
この声は主治医だ。
しかし、この短いやり取りで立川はこの会話が自分のことについて話し合っているものと確信した。
なぜならばこの病棟は小さな総合病院の外科病棟で、更に記憶喪失という珍しい状態にある者など自分以外に聞いたこともない。立川は鳥肌を感じながら、なおも聞き耳を立て続ける。
「ふむ…さすがに悪いことをしたようじゃ」
少しトーンを落とした年配の男の声が聞こえた。肩を落とした男の姿が目に浮かぶようだった。
「しかし博士の復讐が…」
「それ以上言うでない」
男は小声ながら主治医を一喝した。
「復讐など馬鹿馬鹿しいことだったんじゃ…20年もの間、ワシはただの馬鹿だったんじゃよ」

立川は自分と復讐というキーワードを結びつけるものが見つからず、戸惑った。そして薄いドアの向こうで何の話をしているのか気になって仕方なかった。
自分に関係のあることなら部屋に入っても良いのではないかとは思いつつも、盗み聞きをしている自分が悪いような気がして行動に移せないままであった。やがて遠くの廊下からトントンと足音が聞こえてきたのでその場を立ち去った。
その夜は眠れなかった。



今、立川は次の日面会に訪れた「ずんだもち枝豆」と名乗る老人と一緒に暮らしている。

老人は年齢相応の丸さを湛えた老紳士であった。枝豆氏は身寄りのない立川の後見人となってくれた。あの夜聞いた声は枝豆氏の声であった。それはすぐに分かったが、なぜ自分を引き取る気になったのかと立川が何回尋ねても、枝豆氏は「老いぼれのキマグレじゃよ」としか答えなかった。
あまりしつこく聞くのも野暮かと思うようになった立川は、自分が現在穏やかな暮らしが出来ているのもこの老人のおかげだと思い返してその質問をすることを封印した。
気まぐれ、それ以上でもそれ以下でもないのだと納得することにした。
とりあえず今の暮らしに不満はない。
お金は有り余っているわけではないが、ここでは商店でパートをしながら十分に暮らしていけるのだ。

老人宅に来てから、早くも一年を迎えようとしていた。
立川がある朝、庭の草むしりに励んでいると、ふと眼前を目にも綾な深紅の縦縞が舞った。
「…ベニアゲハ」思わず立川はそんな言葉を発していた。
もちろん立川はそんな蝶は知らない。なぜ自分がそんな単語を知っていたのか不思議に思っていると、立川の脳裏をベニアゲハと自分を合わせたような怪人の姿がよぎった。
その瞬間、立川は堤防が決壊するように失われたすべての記憶を取り戻した。
枝豆氏の正体も思い出した。
眩暈からようやく立ち上がった立川は、ようやく1年前までの彼を取り戻したのである。

すべてを奪った枝豆博士に対する憎悪は秒単位で膨れ上がっていき、それから彼がどういう行動を取ったのかは立川本人ですらよく覚えていなかった。

次にふと我に返ったときには、博士は立川の足元で冷たくなっていた。
ついさっきまで博士に向いていたはずのすべての憎悪が、一瞬にして自分に向けられる。
しかしそこにあるのは深い絶望と悲しみであった。立川は倉庫から除草剤の瓶を取り出して、自室のテーブルの上に置いた。ただ、自分の人生にもう誰にも介入して貰いたくなかったのだ。
果たして今の自分は博士…いや枝豆氏をそんなに憎んでいたのだろうか。穏やかな恩人の枝豆氏とかつての悪魔のような博士の姿がどうにも噛み合わず、考えれば考えるほど混乱の渦に巻き込まれる。ひとつだけ確かなことは、自分が枝豆氏を手にかけたことだけだ。
思い出したと思った昔の記憶ですら本当にあったことなのか、今となっては自信が持てない。


「復讐など馬鹿馬鹿しいことだったんじゃ…20年もの間、ワシはただの馬鹿だったんじゃよ」
あの日病院で聞いた枝豆氏の懺悔の言葉が脳裏で生々しく再生されて、立川は震える手で瓶を手にした…。